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大河ドラマ『江』をめぐって

 さて、2011年の大河ドラマ『江』は残念ながら評判は芳しくなかった。開始早々、非難囂々。これまでの「大河ドラマ」の発想を超える「スーパー時代劇」的な展開を意図したが、導入間もない段階で、史実にこだわらない物語展開に対しての抵抗の声や、歴史が当時10歳に満たないヒロインを中心に動いているかのような描写に、「大河ドラマ」ファンを中心に疑問が寄せられた。

 以下は、その代表的な声である読売新聞の鈴木嘉一氏の批評だ。
 読売新聞2011年2月22日付の記事「「江」のご都合主義に違和感」より引用してみる。

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 「敵は本能寺にあり」。2月に入り、NHK総合で明智光秀(市村正親)のこのセリフを何度聞かされたことだろう。大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」で、序盤の山場となる本能寺の変を売り込む番組宣伝スポットだ。宣伝につられたわけではないが、6日放送の第5回と13日の第6回を見て、強い違和感を覚えた。上野樹里が10歳足らずの少女を演じるのは、かなり無理がある。とはいえ、これは演出方針としてひとまず目をつぶるにしても、見過ごせないのは本能寺の変後。野武士に捕らえられた江が明智勢に引き渡され、安土城で光秀と対面する場面だ。
 16日に開かれた放送総局長の定例記者会見で、黒木隆男・副総局長は「江の若い頃は記録がなく、不明の部分が多い。そこはフィクションで」と説明した。もちろん大河ドラマは歴史の教科書ではなく、史実を踏まえたうえでのフィクションとは十分承知している。
 しかし、「あったかもしれない可能性」と「どう考えてもありえない絵空事」とは違う。江が「なぜ伯父上のお命を奪ったのですか」と光秀を問い詰める設定には、リアリティーも説得力も全く感じられなかった。
 噴飯ものは、信長も光秀も死を前にして江の名を口にし、遠くにいる江に語りかける場面。死に際に吐く言葉だろうか。物語の展開も周囲の人物の描写も、主人公をひたすら引き立てるためにあるとしたら、それこそ「ご都合主義」という。
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 鈴木氏は大河ドラマに関する著書も出している、ある意味、大河の大家。よほど腹に据えかねたのか、上記の文章を加筆改変して月刊ドラマ誌にも同様の批評を載せておられる。そこに感じられるのは、NHKの過去の大河を手がけた重鎮たちの「声」だ。鈴木氏は大河に関する著書も出しておられて、過去の大河の重鎮たちから声を聞く機会も多かっただろう。私の目には、この批判、過去の大河の制作陣からの声を代弁したものに聞こえるのだ。ある意味、制作中の現制作陣へ重鎮からの「イエローカード」にも映った。

 一方、脚本の田渕久美子さんは著書「毎日が大河」(幻冬舎刊)でこう語っておられる。

毎日が大河毎日が大河
(2011/12/23)
田渕 久美子

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 ドラマを先行して観るのは本当に恐い。脚本家をやっている限り、連ドラを書き続ける限り、この葛藤は続く。単発ドラマになると、自分が書いていても観なかったものもたくさんある。で、『江』の出来映えというか、私の中のドラマと実際のドラマに違いはあったかだが、これはかなり違っていた。ひと言でいうと、私が目指した「わかりやすさ」を重視したドラマではなく、なんというか格調高いものになっていた。演出家の意図と私の思いが微妙に違っていたと言えるかもしれない。私が書いたものは、もっと明るくはねた感じ。実際にはやや真面目な、よくいえば重厚感が勝ったものになっていた。どちらがよかったのか、それはなんとも言えない。ドラマを観てくださった方が何を感じてくださったか、それがすべてである。よくも悪くもさまざまなことを学んだ『江』であった……。
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 鈴木氏への直接に返答になっていないが、ラストの一文が微妙なニュアンスを含んでいる。
 ま、確かにあまり出来は良くない『江』であったとは思うが、「大河」という枠組を取っ払えば、それでもそれなりにラストまで気楽に楽しめるお話ではあった。
 かつて田渕久美子さんは大河で『篤姫』をてがけておられて、あれば素晴らしい出来映えで、私も自己の年間ベストテンにもランクインさせたと記憶する。そういう出来のいいときは黙っているが、こういうのを書くと、いくら過去に功績があっても、とんでもなく冷遇されるのが大河の怖さというものなのかも知れない。

 ちなみに脚本の田渕久美子さんは前掲著で、一般論としてこうも語っている。

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 私は自分の中にあるものを、脚本という形で生み出す。そのとき、私の中には私のドラマがある。しっかりと映像まで見えている。しかし、それは私の世界であって、その脚本をもとに、監督(演出家)の号令のもと、俳優やスタッフたちが創り上げる別の世界がある。そして、それこそ、人がドラマと呼ぶものなのだ。
 私の中のドラマはいわば裏世界。しかし、作った私にはこだわりもある。俳優の動きからセリフ回しMで見えているのだから。
  (中略)
 今後も、一話一話仕上がってくるたびに、この葛藤は続くことになる。監督との感覚の違い。俳優の役のとらえ方の違いで、私の想像したものとはまったく違うものになるからだ。
 『篤姫』はもう奇跡ともいえるほど、その違いが少ない作品だった。それでも、最終的には視聴者の方が面白いと思ってくださればそれでよい、とも思うのだが…。
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