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てれドラぶろぐ

テレビドラマ研究家の管理人が語るドラマなどの話題

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テレビドラマは「原子力発電」を描いてきたか

 今回の震災では、皆さまご存知のとおり、福島第一原発について深刻な事態が発生しています。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110412/dst11041208550011-n1.htm
【放射能漏れ】
福島原発事故、最悪「レベル7」に引き上げ
2011.4.12 09:20

 東京電力の福島第1原子力発電所の事故で、政府は12日、広い範囲で人の健康や環境に影響を及ぼす大量の放射性物質が放出されているとして、国際的な基準に基づく事故の評価を、最悪の「レベル7」に引き上げることを決めた。「レベル7」は、旧ソビエトで25年前の1986年に起きたチェルノブイリ原発事故と同じ評価。原子力安全・保安院が同日、原子力安全委員会とともに記者会見し、評価の内容を公表する。
 原子力施設で起きた事故は、原子力安全・保安院が、原発事故の深刻度を示す「国際評価尺度(INES)」に基づいて、レベル0から7までの8段階で評価している。
 原子力安全委員会はこれまでに、福島第1原発からは最大で1時間当たり1万テラベクレル(1テラベクレル=1兆ベクレル)の放射性物質が、数時間にわたり放出されたと試算していた。安全委では、現在は同1テラベクレル以下になったとしているが、INESの評価では、放射性のヨウ素131換算で、外部への放射性物質の放出量が数万テラベクレル以上である場合はレベル7に当たるとしている。
 原子力安全・保安院は、福島第一原発の1号機から3号機について、先月18日、32年前の1979年にアメリカで起きた、スリーマイル島原発での事故と同じレベル5になると暫定的に評価していた。ただ、これまでに放出された放射性物質の量がレベル7の基準に至ったため、評価を見直すことにした。


 テレビドラマで、これまで原発というものの取り扱いはかなり慎重でした。

 そもそもテレビドラマが乗る「テレビ放送」という電波。この電波を利用する許認可制度が抱える限界というものがあります。

 それは「対立する意見が並立して存在する事案」にはある程度の中立性が求められるところにあります。「対立する意見が並立」…まさに原子力発電はそれにあたります。
 「原子力発電は安全だから推進」という主張がある一方で、「原発は危険」とする人もいる。あるいは「危険だ」と思いつつも「エネルギー需要を充足するには現状として原子力発電を止めるわけに行かない」という思いもあります。

 こういう様々な対立する意見が存在する問題について「放送法」では、意見が対立する問題はできるだけ多くの角度から論点を明らかにすることを求めています。一方の考え方に結論を置いて主張することがかなり難しいのです。討論番組やドキュメンタリーならば対立する意見の人を投入することで公平性はかろじで保てるのですが、テレビドラマでは最後にある程度の結論が必要です。しかもその結論は作り手の結論として受け取られがちです。
 原子力発電の是非で一定の結論をテレビドラマとして描くことはテレビ局として一方の意見に与しているかのような形になりがちです。テレビドラマでは主観が語られます。報道番組や討論番組、ドキュメンタリー番組以上に主観的なメディアなのです。

 また、根源的に民間放送の経営は原発を推進、有効利用させている人たちが担っているという現実があります。

 例えば民間放送の場合ですと、原子力発電の推進を行っている電力会社から大量に広告を受注している事情があります。私が住む関西では、以前、「原子力は安全でクリーンなエネルギーです」と自信を持って語る俳優・高橋英樹さん出演のCMを何度も見た記憶があります。社会的評価が一定程度ある芸能人が言うことなら「あの人が言っているんだから大丈夫なのかもしれない」と思った人も少なくないように思えます。

 また民間放送局は各地で地元財界の応援のもとで設立されることが多いわけです。経営陣にも地元財界から参画することも多いわけで、当然、地方の財界というのはそれぞれの地域の電力会社が強い影響力を行使していることが多いわけです。となると放送局にとってなかなか財界が推進する方向を敢えて否定するほどの気負いは持ち合わせていなかったといえます。
 同じようにNHKも、放送された番組を審査する機関として放送番組審議会というものが中央と各地域単位で設けられています。その審議会委員には電力会社の役員も参加していることが多いわけです。そこで敢えて原子力発電の危険性に脚光を当てて番組を作ろうという発想が出てこなかったという面があります。

 あと、そもそも民間テレビ放送生みの親とされる正力松太郎さんといえば原子力発電を推進されていた方ですから、正力さんによって設立されたテレビ局の系列は原子力発電を根源的に否定することは構造的に不可能な面がありそうです。

 ただ、こう考えていくと、むしろテレビ局の作るテレビドラマはもっともっと「原子力発電は有用である」という、推進論的な方向で製作されていっても不思議ではなかったように思えるのです。
 ところが「安全性を強調するテレビドラマ」でさえ慎重に避けてきた面があるように思います。これだけ長年、電力会社が巨額のCMを使って原子力発電の安全性と低コスト面を強調してきたというのに、テレビドラマでそれに雷同した立場でのドラマが作られることもなかったのです。
 そこはある程度、テレビマンたちの「良心」だったのでしょうか。「対立する意見が存在している」案件ゆえ、厳格に描かなかったのでしょうか。そのあたりは分かりません。

 ただ少なくともテレビドラマで「原子力発電」を描くことは意識的にも無意識にも回避されてきた面があるわけです。

 そういえば裕木奈江主演でテレビドラマ化された『ウーマンドリーム』(1992、関西テレビ)はアイドルの出世物語でしたが、原作である小林信彦の小説「極東セレナーデ」では、順風満帆にアイドルとして人気を得ていくヒロインが、原発CMへの出演などキャンペーンへの協力を断ったがため挫折していくという展開が後半の骨子でした。ところがドラマ化された内容ではこの重要ないきさつがカットされ別の展開となってしまっていたのです。

ウーマンドリーム - ドラマ詳細データ - ◇テレビドラマデータベース◇
http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-28923

 唯一、原子力発電の現場の状況をある程度描いたドラマとして印象に残るのは、2時間ドラマとしてオンエアされた『火曜サスペンス劇場/原子炉の蟹』(1987年、日本テレビ)ぐらいです。
 このドラマ、決して原子力発電の危険性を描いたものではありませんが、原子力発電所に従事する炉心付近で作業する下請け作業員の過酷で危険な作業環境が端的に描きだされていました。

原子炉の蟹 - ドラマ詳細データ - ◇テレビドラマデータベース◇
http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-24056

 あと、これは私は未見なのですが、『重役秘書』(1979、読売テレビ)では、原発をめぐる建設受注をめぐって政治家から特定の工事会社を受注させるよう圧力がかかる描写があるようです。

重役秘書 - ドラマ詳細データ - ◇テレビドラマデータベース◇
http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-17333

 この『重役秘書』が放送された1979年は、米国のスリーマイル島原発事故が起きた年です。それ以前に原子力発電を扱ったドラマはないのかも知れません。それは、わが国で「原子力発電の危険性」がある程度の広がりをもつようになったのはこの米国原発の事故がきっかけだった気がするからです。

 スリーマイル島原発事故のインパクトが薄らいで数年後、チェルノブイリ原発での原発事故が起き、市民運動としての反原発運動が本格化する。すると市民運動を応援するスタンスのメディアが反原発運動に接近しました。当時、私は大学生でしたが「朝日ジャーナル」などでも反原発運動が取り上げられていました。誌面から漂う雰囲気は消費者運動や市民運動などと何か近い運動のような感覚だったと記憶しています。
 逆にスリーマイル島原発事故以前はほとんど「原子力発電」の危険性は大手マスコミでは少なくとも積極的に語られることはなかったように私には映っています。(単に私が年少だったため知らなかっただけかも知れませんが)。
 以前、テレビドラマの過去の情報を調べているとき、1960年代の「朝日ジャーナル」を図書館で手にしたのですが、偶然にも福島第一原発が稼動し始めたことを取り上げた記事を見かけました。掲載場所は総合ニュースの科学部分でしたが「原子力の平和利用」として原発の稼動を好意的に語るトーンで記されていたほどでした。

 すいません。ちょっと脇道にそれてしまいましたね。
 ま、というわけで、やはりテレビドラマは原子力発電というもの自体を扱うことを避けてきた、と見てもいいのかも知れないわけです。

 これはある意味、テレビドラマの限界なのかも知れません。

 テレビドラマは対立する意見が存在するものについて取り上げることが難しい、ということなのです。原発の是非などはその典型なのでしょう。

 ですが、だからといってテレビドラマが社会全般の事象に対して無力であるというわけでないのです。やや脱線しますがその面も強調しておきたいところです。
 対立する意見がない、もはや「当たり前のように社会に広がる普遍的な価値観というもの」に対してテレビドラマは問題提起をすることが多いのです。
 既存の普遍的な価値観に徐々に、少しずつ、風穴を開け、やがて突き崩していく。そういうところには抜群の力を発揮しているように思えます。
 例えば、戦後の日本では長らく、「いい学校に進学していい会社に入社し、お金をためローンを組んで家を建てることが幸せな人生だ」という、今となってはやや類型的すぎる価値観がありました。
 こういう価値観に対してテレビドラマは長らくアンチテーゼを発揮してきました。
 あるいは嫁姑のありきたりな確執、受験戦争の過酷さ、企業の過酷な競争社会、こういったものを長らくテレビドラマは描き、そのことでこういう単純すぎる価値観が抱える問題点を少しずつ浮かび上がらせてきた面があるのです。
 最近でも『フリーター、家を買う』『美しい隣人』などを見ていると例えば「近所づきあいの難しさ」が浮かびあがります。そしてもし隣人が運悪くヘンな人でも、引っ越しできない。苦労したりイジメにあったりする。せっかく買った家なのだから石にかじりついてもそこに住み続けなければならない…。長らく成功事例の典型であった「持ち家」至上主義社会へのアンチテーゼにもなっているわけです。今回の震災で「持ち家」の抱える潜在的リスクが明らかになりましたが、テレビドラマは以前から「持ち家」の持つリスクを明らかにしていたのです。

 1本1本のドラマ、それ自体は大きなインパクトはないのかも知れません。しかし1本あたりの視聴世帯は映画や演劇、ドキュメンタリーの比ではありません。そういうドラマが少しずつ視聴されていく中で社会を変革させてきた可能性があるのです。原発のようなものは難しいですが、もっと根源的なところを変える力はテレビドラマは持ち合わせているのです。

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