てれドラぶろぐ

テレビドラマ研究家の管理人が語るドラマなどの話題

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連続テレビ小説『てっぱん』の残念なところ

 さて、引き続き、話題は『てっぱん』です。
 先の記事で触れたのは『てっぱん』の良い面でした。ですが、その対局の視点として『てっぱん』の残念な面も少なからず存在するのです。
 そのあたりをちょっと触れてみたいと思います。

 残念な部分として、真っ先に触れざるを得ないのが「強引すぎるストーリー展開」であります。極論すれば残念な部分はそれに尽きるかも知れません。

 例えば、第1回の冒頭でいきなり、実の祖母がラッパを棄てる場面から始まり、その次の回でヒロインが今まで育ててきた親は実の親ではないことが分かる、というのが唐突でした。
 そもそも実の祖母が尾道に出てきて偶然、そこで出会ってしまうというのが偶然すぎる。出来すぎです。ヒロインに視聴者が慣れ親しむプロセスがありませんから共感も沸きにくい。
 またなぜ安田成美や遠藤憲一はヒロインを育てることになったのか、実の親である木南晴夏はどういう事情で亡くなったのか。実の父親はどうなっているのか。亡くなるに際してどのようなことを言い残したのか。そのあたりのヒロインが生まれ育った経緯を遠藤憲一や安田成美がヒロインに説明し言い聞かせ理解させようと全くしない。
 このあたりは恐らくドラマ展開の後半でヒロインが知ることになる設定でそのためにまだ出さず保留している事情があるのかも知れません。ですが、通常のヒロインの感情の流れとしては解せません。そのあたりの経緯を最も教えて欲しいと思うのが人の心情というものではないでしょうか。

 また、これはネットでも多くの人が指摘されていましたが、大阪の会社に就職して初出勤の日に就職先が倒産、尾道に戻らず、途方に暮れる、という展開も無理がありました

 なぜこんな無理な展開なのでしょう。もう少し、自然に見る側が納得できる展開に出来ないのでしょうか。

 実は、このあたりの展開、当初は違うストーリーだったようなのです。

 今年の5月ごろ、NHKの公式サイトに載っていた『てっぱん』ホームページでは、今とはちょっと違う『てっぱん』の物語が紹介されていたのです。

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 ヒロイン・村上あかりは18歳。尾道の高校ブラスバンド部でトランペットを担当し、弱小野球部制作にあたっての試合では演奏を忘れて歓声をあげる熱血応援少女です。
 夏が終わり、就職活動を始めた矢先、あかりはひとりの老婦人からトランペットを渡されます。それはあかりの祖母・初音(68)でした。
 自分が村上家の養子で、トランペットが実母の形見であることを知ったあかりは、育ての親の後押しを受けて大阪の会社に就職し、初音が営む小さな下宿屋に入ります。初めて一緒に暮らす孫を、しかし初音は甘やかしません。「いけず」なばあさんとなって下宿の掃除や食事作りにこき使います。でも、初音の小言の中に生活の知恵や人生経験の含蓄が隠されていることに気づいたあかりは、その知恵によって数々のピンチから救われていきます。
 ところがあかりの会社が一部閉鎖となって事態は急転。職を失ったあかりは、渋る初音を説き伏せて大阪の庶民の味・鉄板焼屋を開業します。
 尾道の母から受け継いだ広島のお好み焼きと、初音から仕込まれた大阪のお好み焼きを二枚看板に、あかりの店には様々な世代の客が集まるようになっていきます。
 やがて店を中心に生まれた人の輪は、高齢者と若者、大阪と尾道を結び付けていくのです。

【2010年5月13日時点のNHK『てっぱん』サイトより引用】
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 この該当ページは現在もう閲覧できません。現在のサイトには実際の物語に沿った内容の文章に変更されています。上記の文章は5月時点で想定されていたストーリー展開だったのでしょう。
 実際に放送されたストーリーと比較して気づくのは、ドラマの流れがこちらのほうが自然そうに見え、これなら見ていてもしっくり来る、というところでしょうか。
 このあらすじだと、前述した「気になる箇所」が存在しません。大阪に来た日に就職先が倒産したという無理な設定もなかったし、ドラマ冒頭の「トランペットを棄てる」という描写もなかったことが分かります。元々は祖母は積極的にヒロインにトランペットを託す設定だったのです。

 では、なぜあんな無理な展開を入れてしまったのか。視聴者をひきつけそうな無理な急展開などを盛り込む発想が求められたのでしょうか。結果的に、ところどころ視聴者が付いて行きにくい、強引な物語展開の箇所になってしまったように思えます。
 せっかく、高度な表現技法を意図したのに、荒っぽいドラマ展開のせいでその良さが見えにくくなっています。

 またそもそも、その「高度な表現技法」を指向したこと、そのことに無理があった可能性があります。高度な表現技法を指向した、その志(こころざし)は素晴らしいのですが、実際のドラマの中ではそれが実現できていない面があるように思うのです。高度な表現が実現できず、その代わり、場当たり的な手法で物語を乗り切って先に進めている。どうもそういう面があるように思うのです。

 例えば、ここしばらくの『てっぱん』の物語展開を例にとってみましょう。今週の火曜から水曜にかけて、回数でいえば第26回から第27回にかけて、急に尾道から、ヒロインの兄、遠藤要扮する欽也が、大阪にいるヒロイン・あかりの下宿へやってきます。そして欽也は、ヒロイン・あかりが実の叔母(富司純子)に「大家さん」などとよそよそしい言動をしていることを見て、思わず注意します。「実のおばあさんなのに、大家さんと呼ぶのは何事か!」と。その結果、他の下宿人たちも、あかりが大家さんと実の血縁関係があることを知ってしまう、そんな展開でした。
 なぜ兄はわざわざ大阪にやって来るという展開にしたのでしょう。翌日には兄はもう尾道に帰ってしまったようです。まさにこのドラマ上で、ヒロイン・あかりが大家さんの孫娘だということを他の住人に知らせておくためだけに出てきた、ということになります。ドラマの展開上、ここのあたりで下宿の他の住人達に、ヒロインが大家さんと血縁関係にあることを周知させておくべき必要があって、そのための手法として、わざわざ田舎から兄貴が出て来る展開を用意したということになります。兄貴の「直情的な行動」によって暴露してしまう、そういう展開を用意したのです。考えようによっては、ちょっと場当たり的な展開といえなくもありません。
 この部分、本当に「高度な表現」を指向してそれを実現させるのであれば、もっと自然な形でここに帰着させるべきだったのではないでしょうか。例えばもっと手前の放送回から自然な形で「ヒロインが大家さんと血縁関係であることを住人が知る」展開に帰着させるべく、周到な伏線を張った上で展開させていくべきではないのでしょうか。そういうことをせず、いきなり田舎から唐突に兄貴が出てくる展開を放り込んで「血縁関係にあることを暴露してしまった」展開というのはあまりに場当たり的ではないかと思えてしまうのです。
 そもそも優れた表現技法を実現させたドラマの場合、いっけんすると「直情的」に見える登場人物の行動でも、その行動に至る内的必然性がさらりと説明されていることが多いのです。例えば、倉本聰氏の『北の国から』あたりでは出てくる登場人物のほとんどが直情的な行動ですが、個々の言動にはかなりのレベルまで、「その行動に至る必然性」が間接的に説明されているのです。
 残念ながら『てっぱん』にはその部分の努力がちょっと足りない気がします。といいますか、そもそも複数の脚本家が交代して執筆する体制でそういう入念な伏線をかなり手前の回から張っておくという高度なことが出来るのかどうか。かなり難しいのではないでしょうか。

 すいません。ちょっと厳しい文章になってしまったかも知れません。ですが、まぁ、まだ、はじまったばかりですから、これからの展開では無理な展開を廃し、作り手が真正面から堂々と視聴者をひきつける、朝ドラの醍醐味を味あわせていただけるような作品を臨みたいところです。今からでもじゅうぶん挽回できると思えます。

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(2010/10/21)


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