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てれドラぶろぐ

テレビドラマ研究家の管理人が語るドラマなどの話題

『ありふれた奇跡』第三回

 え~昨日、テレビドラマデータベースの新作掲示板に『ありふれた奇跡』の第三回を観た段階の印象として「山田太一氏のセリフ、意図がうまく受け手に伝わっていない。空回りしている」ので「次回以降に期待する」と書きました。

 あのドラマにおける山田太一氏のセリフ、いったいどんな偉大な演出家が演出し、どんな偉大な役者が演じれば、うまく映るというのでしょう?

 このドラマのそれぞれの場面について、山田太一氏がどういう風に見せてどういう意図を提示しようと思っているか、長年、同氏の脚本や小説を読んできている者としてはだいたい目に浮かんできます。しかし残念ながら、今回そういう書き手の計算がほとんど空回りしているかのようです。山田太一フリークでない受け手にその意図が伝わってはいません。中には好意的に解釈して受け止めている人もいらっしゃるようですが、その理解は恐らく山田太一氏が言わんとしているものとは乖離した受け手側の誤解にもとづく理解の可能性すら漂います。

 なぜ受け手に伝わっていないのか。役者の芝居や演出という点だけでなく脚本自身に難点があるゆえではないかと疑っています。

 ネット上には「昔から山田太一のセリフはああだった」と擁護(?)している人がいるようです。表面的なセリフは同様に映るかも知れませんが、「セリフの行間にただようもの」「セリフの裏に浮かび上がるもの」が今回は残念なことに悲しいぐらい空回りしている可能性があります。山田作品の過去の連ドラの中では『ふぞろいの林檎たちIII』や『真夜中の匂い』後半部、『時にはいっしょに』後半部あたりは本作に近い空回りが見られました。

 描く主題はこれまで数ある多くの連ドラが扱ってこなかった領域に手を入れているかも知れません。ですが、それは作り手が敢えて飛びこんだわけです。だからといって話がうまく転ばないことの言い訳にしてはダメです。
 田島演出についてもちょっと気になってしまいます。カメラのフレームサイズが全体にちょっとよろしくないのではないかと思います。やや「引き」の絵が多いのですよね。もう少し対象に「寄る」のが通常のテレビドラマらしい映像のはずなのですが、そこを敢えてなのかどうか?「引き」で撮っておられます。そのため、脚本の芝居がかったムードがよけいに加速されて見えてしまうように思います。また細やかなところでその場面がいったい誰に焦点を当てているのかが見えないところがあるのです。
 例えば第3回のキムラ緑子演じる母親が加瀬のところに現れるシークエンス。徐々に後ずさりして、だけど加瀬が追いついてくるのを待っている下りがありましたね。
 あれを「引き」で撮りすぎではないか?もともと気をつけないと芝居がかってしまう場面なのに、不用意に「引き」すぎで芝居がかっているのが丸見えになってしまっています。もともとフジの演出家の方々はTBSなどと比べると「寄り」の絵が多いように思います。ところが今回はTBSのドラマ以上に「引き」が多いのです。また、その直前のコンビニの中の加瀬を外から見るキムラ緑子という画面。あれをコンビニの中と外と両方の絵をつないでいましたがあれこそ、いったいどちらに視点を置いているのか判然としません。また、そのあと川のそばで母(キムラ)と子(加瀬)が語りあう画面でも「引き」が多すぎです。そして、そのシークエンスの最後、サッと母のもとを去っていく加瀬、という絵をナゼか手前上方から見おろすような絵で撮る。それまで対象と寄りそっていた絵に続けてなにゆえ急に視点を離して、しかも見下ろす絵を入れるのか?意味が不明です。
 ということで田島演出にも疑問に感じるところは多少あります。

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